院長紹介

こうして歯医者になりました。

歯科治療といえども人間関係ですから、信頼関係を築くことはとても大事なことです。そのための方策の一つとして私の経歴を書きました。歯科医師を目指したエピソードなども書き込んでいますのでお読みいただけるとありがたいです。

ページのトップに戻る

生い立ち

1963年4月、長野県長野市にて生を受けました。
物心がついた時から17歳までを東京の葛飾区で過ごしました。
幼稚園の頃は原っぱや空き地、池、沼地などがあちこちにあって、毎日日が暮れるまで仲間達と遊び回っていました。草野球、缶けり、馬跳び・・・すり傷が絶えないやんちゃな子供でした。

ページのトップに戻る

三つ子の魂

地元の小学校に通い始めても相変わらずの日々でしたが、2年生の時に交通事故に遭い、足を骨折して3ヶ月の入院生活を送るはめになりました。
しばらくすると退屈で退屈で・・・他にすることもなく病院で働くたくさんの人たちを観察し始めました。
これがとても面白かったのです。白衣を翻らせて歩く先生や優しいけどこわい年配の看護士さん、体操のお兄さんだと思い込んでいたリハビリの先生、いかに食事が大切か教えてくれた栄養士さん、邪魔をしないように少し離れておとなしくいろいろな人のいろいろな仕事を毎日飽きもせずに見ていました。
子供心にインパクトは大きかったように思いますが、退院したあとにはそれも無かったかのようにすっかり忘れてまた原っぱを駆け回っていました。 それでも、現在の僕が歯科医師という職業に就いている根源はこの時にあったのではないかと考えています。

ページのトップに戻る

気宇壮大すぎて

地元の小学校を卒業した私は東京教育大学付属中学校(現筑波大学付属中学校)に入学しました。国立の中学校で教育の実験校でもあり、古風ではあるけれど一風変わった学校でした。校則は厳しかったですがその運用は生徒会に委ねられており、中学生ながら大人扱いをされている感じでした。
その中学の美術の授業でポスターを描く課題がありました。題材は自由と言われてグラフィックデザイナーで画家の横尾 忠則氏の作品の模写にキャッチコピーをコラージュした大作に挑戦する暴挙に出ました。
案の定時間がいくらあっても足りなくなり、放課後も休み時間も他の授業時間も使って完成させました。自分が人一倍凝り性で細かい作業が苦にならない性格なのだと身をもって実感した瞬間でした。

ページのトップに戻る

多感な時期と将来のビジョン

そのまま内部試験を経て筑波大学付属高等学校に進学すると、そこはさらにリベラルな校風が待っていました。生徒会も制服も校則も無いほぼすべてが自由な学校でした。
自由ではありましたが何事にも自己責任が求められ、勉強をするのも自分、クラブ活動に熱中するのも自分というある意味では厳しい環境でした。
私はと言えば、馬術部とサッカー部でスポーツ三昧の日々を送り、学業の方は留年寸前という状況を作り出してしまい周囲をずいぶん心配させてしまいました。しかしながらそのおかげで、現在でも月に1〜2度みんなでフットサルを楽しむ親密な人間関係を築くことができました。
なんとか留年を免れ学業にも身を入れてきた17歳の頃、麹町へ引っ越しをしました。皇居にほど近い洗練された街並は将来のビジョンについて真剣に考える大きな契機になりました。まだネットもウィンドウズもなかった黎明期のコンピュータの世界に進むか、幼い時に垣間見て興味を抱いた医療の世界に進むかを1年以上も悩みました。最終的には繊細で芸術性もある歯科医師を目指したいと思うようになりましたが、決め手は私自身の心の奥にあった医療へのあこがれだったように思います。

ページのトップに戻る

歯科医師への階段

1983年、日本大学歯学部の門をくぐり歯科大生としての生活をスタートさせました。上下関係のしっかりした体育会系のアメリカンフットボール部に入部し、厳しいですが頼りがいのある先輩方にも恵まれよく学びよく遊んでいました。
アメリカンフットボールは全体としてはとても戦略性の高いスポーツです。しかし一つ一つの小さな局面では肉弾戦であったりボールのコントロールであったりして個人の身体能力に大きく依存しています。きつい練習が実って作戦の成功に結びついた時の充実感は何とも言えないよろこびでした。私たちが中心選手の時にリーグ戦で準優勝の成績を残せたことは今も誇りに思っています。
勉学の面では歯科大学は6年制で、知識と技術と習得は一筋縄でいくはずもないことでしたが、歯科医師になるという目標が明確だったのでそれほど苦痛には感じることなく努力を続けることができました。それでも実習とレポート提出が重なったりすると深夜まで参考文献と格闘したのを思い出します。
上級生になると勉強の面でもクラブの面でも後輩の世話をしたり相談を受けたりすることが増え、その度に自分自身が諸先輩方から与えられたものがいかに役に立っていたかを思い知りました。卒業が間近になるにつれ、今の自分があるのは多くの人々から支えられてのことなのだという感謝の気持ちが大きくなっていき、そしてそれを歯科医療で社会に貢献することでお返ししたいという気持ちも同時に育っていきました。

ページのトップに戻る

修行と研鑽

1989年に大学を卒業、国家試験も無事合格し念願の歯科医師となりました。大学に残って研究研修をというお誘いもありましたが、直接的な社会貢献に対する気持ちは捨てがたく埼玉県浦和市(現さいたま市)の歯科医院に勤務することにしました。
ベッドタウンとしては成長途中の街で大きな工場なども点在しており、多種多様な患者さまが多数おいでになる医院でした。東京とは異なり大学病院が近いわけもないので、一般歯科、口腔外科、矯正歯科、小児歯科、インプラント、審美歯科・・・あらゆることに対してエキスパートであることを求められました。毎日が実践と反省と勉強でした。
必要とされるレベルに達してからもさらに研鑽を重ねました。休診日などに各種のセミナーや勉強会を受講し、新しい書籍や論文、文献など読み込みました。どんなことにも挑戦させてもらえたので、これはと思うものはどんどん自分の臨床に組み込んでいきました。
やがて副院長としてスタッフの人事や後進の教育などにも携わるようになった頃から私自身のクリニックを開設したいという想いが膨らみ始めました。身体にとってできるだけ侵襲の少ない治療を押し進めていきたいと考えた結果でした。

ページのトップに戻る

社会に少しでも貢献したい

1997年に江東区大島にヨシタケ歯科診療室を開設しました。東京中を歩いて探し、たどり着いたのは、幼少の頃に慣れ親しんだ葛飾と同じ雰囲気の下町の商店街でした。
医院開設後も勉強会などに出席する研鑽は続けており、できる限り「歯を抜かない」「歯を削らない」「神経をとらない」「歯肉を切らない」という方針に添うものがあれば積極的にシステムに取り入れています。これからも不断の研鑽と感謝の気持ちを忘れずに、日々の臨床を通して患者さまやさらには社会に貢献していきたいと思っています。

最後まで目を通していただきありがとうございました。私の人となりをわかっていただく一助になればうれしい限りです。

ページのトップに戻る

略歴

1963年4月  長野県生まれ  血液型B
1979年3月  東京教育大学(現筑波大学)付属中学校卒業
1982年3月  東京教育大学(現筑波大学)付属高等学校卒業
1989年3月  日本大学歯学部卒業(歯学士取得)
1989年5月  第82回歯科医師国家試験合格
1989年5月  埼玉県浦和市にて歯科医院勤務
1997年3月  東京都江東区にてヨシタケ歯科診療室開設
・ 日本歯科医師会会員
・ 東京都歯科医師会会員
・ 江東区城東歯科医師会会員
・ 江東区城東学校歯科医会会員
・ スタディーグループWDSC会員
・ 江東区立大島第五保育園園医(嘱託非常勤歯科医師)
地域に根ざした医療体制を築くため地元自治体と連携して下記の事業に積極的に取り組んでおります。

ページのトップに戻る

受託・健診事業

・ 妊婦歯科健康診査
・ 1歳6ヶ月歯科健康診査
・ 乳幼児・(子)医療費助成事業
・ 在宅歯科訪問診療
・ 休日歯科応急診療(当番制)
・ 3歳児歯科健康診査
・ 歯の衛生週間健康診査
・ 保育園歯科健康診査
・ 歯周疾患検診

ページのトップに戻る

相談事業

・ 両親学級(妊産婦)
・ 歯の衛生相談(乳幼児)
・ 歯の衛生週間無料健康診断・相談
・区民まつり無料歯科相談

ページのトップに戻る

WDSC  Weekend Dental Study Community

毎月全国各地より40名以上の会員が集まり、研修を行っている日本で最も活発に活動しているスタディグループの一つです。発足は1971年で、僕は1992年に入会し、勤務医の時代から今日に至るまで積極的に参加しています。
現在常設のセミナーとして矯正歯科の実習コース(ベーシック、アドバンス、フォローアップ)とインプラント認定医資格取得コースがあります。またこれらとは別に、その時期に話題となっている旬な講師やその道の大家と呼ばれる著名な講師を招いて講演をしていただき、日進月歩の歯科の世界で最新の知識と技術にブラッシュアップしています。こちらは分野にとらわれることなく解剖学や細菌学のような基礎的な事柄からホワイトニングやレーザーのような先端治療、さらには人事管理や法律問題に至るまで幅広く勉強をしています。

WDSC

ページのトップに戻る